なんてったって 40代!

恐る恐る40になり、
かなりボロボロになりながら厄年を迎えましたが、
今、厄年を越えて元気です。
ビバ!40代!!
目指すは中年の星です!!
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「職人技の伝統を守り、発展させよ!」〜「跡取り娘」の企業再生への挑戦 〜 伊藤麻美さん講演
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10日の夜、友人の会社で行われた、日本電鍍工業蠎卍弘貌K稟さんの講演

「職人技の伝統を守り、発展させよ!」〜「跡取り娘」の企業再生への挑戦 〜 

にいってきました。

内容は一応後半にまとめてあるので、興味のある方は見ていただきたいのですが、
(僕のまとめが見にくい人はこちら(前篇)とこちら(後編)をどうぞ)


細かい話以前に、講演だのセミナーだので人の話を聞いて、こんなにウルウルしたのは
「わくわく伝染ツアー」
以来、二回目かな、と。

特に

たとえ会社がつぶれても、命まで取られるわけじゃない。自分が死ぬ時に、後悔したくない。そして、ここで継がないと決めたら絶対後悔するだう。だったら継ごう。

という話と

今日できなくても明日できるかもしれない。3年後にはいとも簡単にできるかもしれないので、できないでかたずけない

という話は、自分への教訓にしたいな、と思いました。

「できない理由を考えるのではなく、どうしたらできるか考える」

と、若い人たちにいい、自分もそうしたクセをつけようとしていますが、ついついできない理由を考えてしまいがちです。

社長に就任しようと覚悟を決める話も、理屈では分かっていてもその場に立つと、なかなかその通りには行動できないものですが、修羅場に立ったときに真の人間性がわかるというのは、本当だな、と感じました。

下手な男より「カッコいい」ですもんね、同世代人として見習わないと。


以下、結構長〜い、まとめです。


●日本電鍍工業とは?

扱っているメッキは主に貴金属メッキで、腕時計を中心に、事業を行っていました(過去形)
創業時、時計のセイコー社の指定工場になることで事業が安定・発展した。
なぜ設立したばかりの父の会社がなれたのかというと、父が、セイコーの社長が出張で利用する飛行機の座席を知り、その隣の席を予約し、乗り合わせた際にチャンスのきっかけをもらい、そして、そのチャンスをものにし指定工場になった。
父が経営している際は非常に業績も良く、埼玉県内で、常に納税額がトップ5に入るほどの会社であった。
しかし、父が亡くなってから、会社の業績が悪くなっていった。

●就職活動

父は、私に会社を継がせる気はなく、私にも継ぐ気はなかった。
私は好きな事を仕事にしたいと思い、「音楽と宝飾が好きだから、どっちにしようかな」と父に相談する。父は、アクセサリーの製造会社も持っていたので、「宝飾なら、将来、手伝えるけど」って言ったら、「まあ、宝飾は年取っていてもできるから、音楽の道に進めば?」って言われた。
それでまず音楽の仕事をと思い、オーディションを受け始めて、小林克也さんのアシスタントで受かって、そこからスタートした。
DJの仕事を始めて1年程経った際に父が亡くなったが、その後8年間DJの仕事を続けていました。
その間に、父の会社は徐々に悪くなっていったようでだが、そのことすら、私は知らなかった。

●夢を実現するためアメリカへ、そして突然の帰国

30歳を迎えるころ、ラジオの仕事が天職でないと思い始める。
それで、もうひとつの夢であり、一生続けられる仕事をしようと思い、宝石の勉強をするためにアメリカに留学した。
カルティエの社長とパーティーの席で出会い内定をもらい、働ける状況になっていた矢先、日本から連絡が入り、会社の状況が悪いのですぐに戻ってきて欲しい、と告げられた。
それは、会社を助けるという意味合いではなく、実家が会社の名義になっていて、差し押さえを受け、引っ越さなくてはいけないということだった。
父の次期社長が、放漫経営のため会社の資産を食い潰していて、その上、十数億の借金まで作っていた。
前社長は、メッキの仕事が中国等海外へ流出する中、何の手も打たず、売上が下がれば資産を売って穴埋めしていた。
そして、資産が底をついてきて最後に残った資産が私の家だった。

●「跡取り娘」から「経営者」へ

会社は閉鎖する以外道は残っていないといわれた。
最初はできるだけいい形で閉鎖するにはどうしたらいいか、ということで、監査役などの立場についた。しかし、会社や社員と関わっていくにつれ、何とかこの会社を立ち直らせることはできないかと、真剣に考えるようになってきた。
社員を見ていると、その社員の家族まで見えてきて、自分がここまで成長できたのは、この社員の方達のお陰なのだと強く思った。
会社が無くなるということはその社員の生活が狂う、その子供たちまで影響が出る、と思った。
また、会社が悪くなったのは父のせいだ、という人が一部にいたが、それだけは許せないとおもい、何とか再建できないかと考えた。
多くの企業経営者の方に経営をお願いしたが、協力は得られなかった。
「なぜだろう?」と税理士の方に聞くと、日本には個人保証制度があり、失敗すれば、当然個人の資産まで持っていかれる、その重さも初めて知った。
しかし、当時私は資産がなかったので、もし私が引き継いで駄目になった場合はどうなるのか尋ねると、自己破産という結果になるということだった。
自己破産とはどのようなものかを訪ねると、社会的信用が無くなるということだった。
しかしながら、私は社会的信用がなくなるかもしれないが、命は残る。人にばかり頼っていないで、自分が会社をなんとか甦らせることができないかと思った。
しかし、再建できる自信はまったくない。再建計画もない。数字も読めないし、専門家から言わせれば、無理ですとしか言われなかった。
でも、両親もいないし、家も失うのであれば親の証は会社でしかない。それを何とか守りたいという気持ちがどんどん強まりまして、友達のお父さんの経営者に相談をしましたが、皆反対した。
唯一、友人の父で会社経営をしている人だけが、「麻美ならできる。3年間地獄を見てこい」と言ってくれた。
3年地獄見たら、その後は天国か。だったらやってもいいかな、と思った。

●覚悟した瞬間

一番自分を決断させたきっかけは、自分の人生を振り返った時に、自分が死ぬ瞬間に、それまでの人生がフィルムのように流れ、楽しかった、嬉しかったと思いながら笑顔で死んでいきたい、と思っていたこと。
たとえ会社がつぶれても、命まで取られるわけじゃない。自分が死ぬ時に、これまでの人生に胸を張ることができるか、後悔はないか…と考えた。
そして、この場面で、もし私が継がないと決めたら後悔するだろうと。なぜあの時やらなかったんだろう絶対後悔する。だったら継ごうと。
何も行動を起こさないで後悔するよりは、行動を起こして痛い思いをするかもしれない。
でも当時32歳ですから、大失敗してもまだいけるだろうと。
人生やり直せるし、その経験はそれ以上に身になる成長材料になると思った。それが2000年の3月。

●決意を表明した就任挨拶
就任して何が一番恐かったかというと、社員が辞めてしまうのではないかということだった。
就任の挨拶は何を話したかもう覚えていない。ただ私が就任すると知らされていない社員もいたので、全員集められた際は、倒産か何か発表があると思い、辞表をしのばせていた社員もいた。
しかし、挨拶の後、辞めようと思っていた社員のうち何人かは「オーナーにご恩返しがしたい」「俺たちで娘さんをもり立てよう」と辞職を翻意してくれた。
そういう意味で、本当に社員には恵まれたと思う。

●コミュニケーションの力で、社員の心をつかむ

しかしながら、全社員が協力的ではなかった。
私は、全社員とコミュニケーションを持ち、人間関係を築き上げることがスタートの第一歩と思っていましたので、毎朝「おはよう」の挨拶をした。自分から、全部、部署を回って。
しかし何人かの社員からは、無視される。その人を追いかけいって挨拶をした。そうしたことを毎日続けていくうちに、少しずつ打ち解けてきた。

●会社の信頼を勝ち取るために

赤字会社の社長としては、まず金策を考えなければいけない。しかし、つき合いがあった銀行もみなそっぽを向く。女性経営者というだけで扱いが悪かった。「あんたが社長? プロフィール持ってきてよ」「君じゃ話にならないから本当の社長を連れてきて下さい」といわれた。
信用を築くために、毎月赤字の試算表を持っていった。
ただそれだけでは芸がないので、今こんなことしています、あんなことしています、というのを話すことによって何とか信頼してもらおうという努力はした。
その後、黒字が出るようになったあと、あるセミナーで隣に座った方と名刺交換をすると、「うちとは取引があるのかな」と言われた。ある銀行の社長(頭取)の方だった。「そんな、ないです。うちはそんなお取引いただけるような会社ではないので」と答えた。翌日、地元の支店の営業の方が訪問してくれた。お礼の電話を社長にすると、その翌日には支店長がきて、10期分の決算書を貸してくれ、と言われた。そして、結局、その銀行が借り換えをしてくれ、メインバンクになってくれた。
仕事を取るために展示会にも出店したかったが、費用が無いため出店できなかった。代わりに展示会場へ行き、出店している企業の商品を見て「これはメッキですか?」と訪ね、「当社はメッキ屋なんです」とアプローチし続けていた。すると「今度見積もり出してあげるよ」などと言っていただき、少しずつネットワークが広がっていった。

お金がなくて、税金も社会保険も払えなくてストップしてもらっていた当時、もちろん賞与も出せなかった頃お年玉として、お年玉袋に1万円を入れて社員一人一人に配った。
そのとき、皆が泣いてしまって受け取らない。
「社長、この1万円は使えません」といって仏壇に置いた人。
その1万円を使って「何とか会社がうまくいきますように」と神様に願掛けに行った人。
今でもその1万円が入ったお年玉袋をお守りのように持っていてくれる人。
みんなの気持ちが一つになって会社全体の雰囲気がまた変わった。


●HP作成が会社飛躍のきっかけに

もっと当社を知って頂くため、HPを作ろうとしたが、当時の中小企業でHPをもっているところはあまりありませんでした。会社にPCは2台しかなく、ネットにつながっているのは1台だけだった。
そして、HPをつくるために見積もりをとると、70万〜100何十万。日々の資金繰りで苦労している企業には、到底出せる金額ではなかった。
そこで悩み考え、自分達で作ることにした。でも、ほとんどの社員がPCを使えなかったので、女性の社員にPCを勉強しませんか?と呼びかけ作り始めました。
会社が終わると皆で集まり無償で協力してもらい、何とか最初のHPは完成しました。
その次に、パンフレットを作ろうとしました。でも、やはり印刷代高い。
どうしようと悩んでいたら、社員の一人が先日カラーコピー機の営業マンが来て、新機種が出るので、お試し期間が3日間あるということ。
そこで、3日間で800枚刷り、そしてお試し期間が終わったと同時に会社の事情を話し、このパンフレットで会社の営業を行い、業績が回復した際に購入しますと告げ、コピー機は返却した。
そして営業をがんばっていこうとした時に社員の方から「社長これからどこに営業をかけていくのですか?」と問いかけられた。
長年やってきた社員の方達のほうが詳しいのだから、考えてくれ、と思ったのだが、社長として自分でこの問いに答えていく必要があると思い、そして景気の悪い中自分だったら何にお金を使うかと考え、「医療と美容と健康です」と答えた。
そして数日後ある会社から「おたくのHPを見ました、話を聞きたい」と電話を頂き、そして後日話をすると(医療用)カテーテルのメッキを施して欲しいとのことだった。
絶対やろうと決めたが、社員はこんな難しいことできるわけがない、という反応だった。

●できないことはない、という信念を基に

「やってできないことはない」というのが私の信念でもある。それは自分の過去の小さな成功体験の積み重ねから得た。
今日できなくても明日できるかもしれない。
3年後にはいとも簡単にできるかもしれないので、できないでかたずけないで欲しい。
技術の会社なのでやってもらいたい、そう告げた。すると、10人「できない」って言っていたのが9人「できない」になって、8人「できない」になって。2〜3人が「じゃあ、やってみましょう」って。やってみると、他のメッキ屋が何年もかけてできなかった技術が、数ヶ月でできるようになった。
そのことは社員にとっても自信に繋がったし、できないことはない、それぐらい当社の技術は証明された。

次に、私は全社員に業績をオープンにすることを決めた。
数字が分からなければ、再建するのも難しいから。
オープンにするリスクもあった。業績をオープンにした際、何もない、借金だらけなのだということに全員が気づき、辞めるという人もでるかと思ったから。逆に何とかしよう、もっと努力しなければと、前向きな気持ちに変わり、それが3年目で黒字になる要因になったと思う。

今まで社員や多くの方に助けられてここまでやってこれたので、これから縁を大切にし、社員と共に成長し、次にステップアップしていきたい。
やっと賞与が出せるようになった段階。
100年企業を目指していきたいと思う。

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| 中 久 | セミナー・講演 | 06:07 | comments(0) | trackbacks(2) | pookmark |
「和田裕美のわくわく絵本 ぼくは小さくて白い」刊行記念 講演会&朗読会
和田裕美のわくわく絵本 ぼくは小さくて白い
和田裕美のわくわく絵本 ぼくは小さくて白い

JUGEMテーマ:大人のための絵本


昨日、「『和田裕美のわくわく絵本 ぼくは小さくて白い』刊行記念 講演会&朗読会」へ行ってきました。


僕は和田さんセミナーには何度か出たことがあるのですがビジネス書ではなく「絵本」の刊行記念、しかも「朗読会」と銘打たれていたので、どんな雰囲気になるのだろうと、わくわくしながら昨日を迎えたのです。

実際、講演会&朗読会はものすごくよかったのですが、

実は

会場に入る前から、会社を出る寸前にamazonの「著者からのコメント」を読んだ時点から、「やられた!!」状態になっていたのです(いい意味でですよ(笑))

こんにちは、和田裕美と申します。
実は、私は小さい頃、このペンギンのように足が遅くて
本当にいつも一番後ろを走っているような
身体が弱くて小さくて目立たない大人しい子供でした。
そんなわけで私は運動会が大嫌いだったのですが
運動会の徒競走で
いつものように最後になりました。
下を向いていた私に母が言いました。
「あんた、えらいわぁ、どべで(最後で)恥ずかしいのに
  ようがんばって走ったなぁ。えらいなー」と
(以下省略)


子どものころの僕は、和田さんよりも速かったとは思いますが、足が速いほうではなく、8人で走るとだいたい5番か6番が定位置でした。

で、確か小4の時だったと思うんですが、その年から本格的に野球を始めて、体力もついてきて、足も多少は速くなったと実感してきていました。
「今年の運動会は少しはいけるかな」
と思い、かつ、徒競走の組み合わせをみたら
「これは3位はいけそう(3位までに入るとなんだか忘れましたがほめられたのです)」
と思っていました。

ところが、気合いが空回りしたのか、スタートと同時にこけまして、膝と手のひらをすりむいて半泣き状態で最後方を走りました(出遅れた競馬馬みたいにですね)

無論、結果はどべ(ビリ)

たぶんビービー泣いていたんじゃないかと思うんですが、その時、たまたま見に来てくれていた親父がこう言いました。

「お前、よく頑張ったな。もう、勝てるわけないって分かってたろうに、最後まで一生懸命走ったのは偉いぞ。いいか、男はな、負けと分かっている勝負でも時にはやらなきゃいけないことがあるんだ。それを覚えただけよかっただろ」



この言葉は、確実の僕の10代から20代人生を支えてくれた言葉のひとつでした。

でも、実は

忘れていたんですね  和田さんのこの文章を読むまでは。

そのころのことを思い出して、ウルウルしながら八重洲ブックセンターに向かったわけです。

絵本もホントにいいです。

人に何かを伝えたいとき、言葉を尽くすことが必要なことも多々あるでしょうが、

でも、ギリギリそぎ落としたシンプルな言葉だからこそダイレクトに胸に刺さってくる、

ということもあるんだなあ、ということを再確認しました。

こんな時代だからこそ

「ピュア」

なものが生き残っていくんだろう、と思います。

なので、今年度の僕のテーマは「愛」です(何を言ってるんだ(笑))

では、ありがとうございます。おやすみなさい。


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| 中 久 | セミナー・講演 | 23:32 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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あっさりと読み終えることができますが、あとからじんわり効いてきます。
ビジネス書と違い、絵本ですからとても少ない言葉で書かれています。でもシンプルだからこそ想いが伝わってきます。
勇気づけられます。明日はきっといいことがある思える本です!!
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